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京都ウイングワイズメンズクラブの歴史

クラブの誕生

京都で2番目にできたクラブ、京都パレスクラブが日本のワイズ史でもまれな2クラブ同時チャーター(新クラブ設立)を果たし、そのうちの一つ京都めいぷるクラブが設立5年目に7名のメンバーが新クラブ設立を決意し、新たに20名のメンバーを募って京都ウイングクラブが誕生した。設立総会を1987年5月31日に、チャーターナイト(ワイズメンズクラブ国際協会の認証状伝達式及び披露宴)を同年11月21日に挙行、京都では7番目の当時平均年齢34歳の日本一若いクラブとしてスタートする。

初めてのYMCAサービス事業

YMCAサバエキャンプ場の開設ワークがウイングにとって初めての対外活動。勝手がわからず、雨が降り出して中止と思いこみ、全員引き上げてしまって初代連絡主事から大目玉。先輩クラブから不安視されていた新クラブが早々の大失態で、現在の精力的なYサ活動から思うと夢のような話。2年目からは近くの甲賀キャンプ場のプール設置ワークに配置換え。○年目から甲賀キャンプ場閉設に伴い現在のリトリートセンターでのワークに変更、現在に続く。

国際大会が京都で開催され、地酒コーナーを担当

2期の初めに京都国際会議場にて全世界のワイズメンが集まる国際大会が開かれ、在京各クラブが様々なブースを担当。当クラブは日本各地のワイズメンに依頼して各地の地酒を提供してもらい、地酒のバーカウンターを開設して大いに喜んでもらえる。

期の始まりを告げるCS(地域奉仕)事業

3期目の初め、YMCAから引き継いだ障害者福祉協会の事業となっている、丹後半島久僧での障害児キャンプ開設のための一泊ワークが実行に移され、以来毎年7月初旬週末の恒例事業となる。託された作業は宿泊棟とキャンプサイトの間を流れる川(川幅6〜7m)に車椅子が通れる仮設橋を架けること。初年度は大雨の中、増水する川に浸かっての難作業が今でも語りぐさになっている。キャンプサイトが移動になるまで架橋の作業が続き、以降、車椅子で使用できるバーベキューコンロサイトの建設、小屋やテラス、遊具などキャンプ場に必要な設備を次々と生み出し、現在も続く。

インドとの交流からIBC事業のスタート

4期目に入って海外との交流事業にメンバーの意識が高まってくる。当時京都YMCAと関係の深かったインドランチYMCAを通して設立間もないランチワイズメンズクラブとの兄弟クラブ締結の話が持ち上がる。言葉の問題、習慣の問題、距離の問題に議論を重ね、年末にメンバー10名がカルカッタ経由でランチに入る。歓迎パーティーの席上でいきなりIBC締結の調印式となる。以降ランチYMCA・ナイク総主事やランチワイズメンズクラブ・サブー会長の訪日、情報交換が続く。

聖マリア養護学校の支援

YMCAとつながりのない施設への初めての奉仕先として聖マリア養護学校と話し合いの場を持つ。バザーへの協力としてうどんの模擬店を出店、以降のウイング屋台の魁となる。餅つきの手伝いなど関係が深まるが、○年後に衣笠授産所へのバザー協力へと移行、現在に至る。

京滋部長輩出と京滋部会の開催

5期目に当クラブより中島京滋部長を輩出し、京滋部会のホストクラブとなって大津ロイヤルオークホテルで部会を開催。初めての試みとしてクラブ対抗弁論大会を開催し、会場に手作りのバーカウンターを設置するなど大いに盛り上がる。

インド基金設立

ランチクラブとのIBC締結のために、生まれて初めてインドを訪問してきたメンバーたちのカルチャーショックが、それぞれの胸の内にじわじわと何かを熟成しつつあったこの期に「インドのために何かできることはないか」の議論が沸騰、先ずはインドから紅茶を輸入し、その販売益を基金にしようとインド基金委員会を設立。次期から販売を開始し、他クラブからの支援も得て初年度に約200万の基金達成。

インド訪問

6期目夏、メンバー5名がインドを訪問し、マランガダ村にあるランチYMCA農業開発センターにて植樹するなど、ホームステイを通して親交を暖める。たまたまスラムの子供たちを収容する学校を個人で営むキャプテン・ベン氏と出会い、デリーにあるケネディー・ハイスクールを訪問、子どもたちとの交流が後年インドスタディーツアーでのプログラムの一つに組み込まれる。

北見クラブとDBC締結

7期目春、流氷が知床に押し寄せる頃メンバー5名が北見クラブを訪問し、国内版IBC事業としてDBCを締結を協議、その年の日本区大会にて調印式を行う。その後、東西日本区に分かれたこともあって交流は低調なものとなっている。

ジャパンフェスティバルの開催

ランチYMCA創立25周年を記念して、現地で日本の文化や伝統を紹介するための「ジャパンフェスティバル」が企画され、ウイングが中心となって京都YMCA手作りとなる使節団を結成。メンバー・メネットから茶道・華道の心得のあるものを募り、道具一式を携え、インドスタディーツアーの参加者を含め総勢30名が、8期目夏にランチを訪問。ランチクラブ例会場やYMCA職業訓練センター、ホテル・大学ホールなどを会場に、お茶の点前、生け花の実演、着物ショー、琴の演奏、600枚に及ぶ現代日本のポスター展示や様々な作品展示、大学生との異文化の意見交換会やコーラスの交換会など多彩な3日間にわたる大きな催しとなり、現地では珍しく州知事も参加されて新聞にも大々的に報道される。現地に花屋が存在せず、生花を集めるのに苦労したり、町中でチャイを飲んだあと素焼きの器を捨てる習慣から、高価な抹茶茶碗を捨てられそうになったり、着物の着付けでポラロイドのフィルムがあっという間になくなったり、現地メンバーがサーバント任せで、自分で動こうとしなかったり、とっても大変だったけど、とっても有意義なフェスティバルだった。

インド・ランチ教育支援プログラムの開始

ジャパンフェスティバル終了後の現地でのミーティングで前期から双方で煮詰めてきたインドへの支援プログラムについて協議。結論はランチ郊外のマランガダ村周辺の3〜5歳の子どもたちに対する教育支援。100人を超える子どもたちへの教材と簡易上着に毎日の昼食そして教師のサラリーを加えて、1年間で30万円?!当時の基金残高100万円のため、とりあえず3年間の期間限定で支援スタート。教育は3年で終わるものではなく、現在も毎年インド基金から30万円強の資金を送り続けている。4年後の12期夏には4名のメンバーが渡印し、マランガダ村でのプログラムを視察。そのすばらしい成果を実感する。

エクステンションへの動き

9期半ばにメンバーも40名半ばを超え、近くとなり、ワイズメンズクラブの大きな命題である子クラブ設立(エクステンション)への機運が高まる。多くの議論を重ね、新クラブ設立準備委員会設置のもと、14名の移籍メンバーを承認。10期初めにチャーターナイト実行委員会を立ち上げる。

子クラブの設立総会及びチャーターナイト

新クラブの名称も「京都トゥービークラブ」と決まり、10期半ば1997年1月19日に国際ホテルにて設立総会を挙行。新しいメンバーも増え30名となり、何度かの研修や仮例会を積み重ねて11期初め、同年7月13日に全日空ホテルにてチャーターナイトを迎える。ウイングクラブも31名のメンバーで新たなスタートをきる。

例会場の変更

12年間例会場として親しんできた国際ホテルから、議論の末に新たに日航プリンセスホテルを例会場とする。

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